日本語版CRS-Rの作成にあたって
私が日本語版CRS-Rを作ろうと思ったのは2019年でした。
CRS-Rの開発者の一人であるJoseph T Giacino先生に、翻訳許可をお願いするためのメールを送ることを決断できたことが全てだったと思います。
当時、意識障害患者のリハに関する研究を計画していましたが、個人的にはリハの効果判定のためにJapan Coma Scale(JCS)やGlasgow Coma Scale(GCS)を使うのは、あまり良くないと感じていました。
何故かというと、JCSやGCSは重症者を表すためには有用な評価ですが、意識障害の回復過程を表すには大雑把すぎるためです。
そんなとき、文献をレビューしていて、近年の論文では「CRS-R」が意識障害の評価として頻繁に使用されていることに気づきました。
それまで、意識障害の評価といえば「JCS」や「GCS」の2つしか知りませんでしたので、最初は「最近は新しい評価が出ているな」という程度の認識でした。
しかし、CRS-Rについて調べ始めてみると、直ぐにその認識は大きく変わりました。
「これはCRS-Rという新しい評価があるというレベルの話ではなく、CRS-Rを使わない意識障害の研究では、正確に効果判定が出来ないのではないか」と感じ、大変衝撃を受けました。
更に調査を進めてみると、CRS-Rは意識障害の研究の世界ではゴールドスタンダードとしての地位を築いており、既に10以上の言語で翻訳されていることが分かりました。
CRS-Rの優れた点は、国際的に認められた意識障害の重症度分類(重症から軽症の順に、UWS→MCS→EMCS)の定義に基づき、これらを識別できるように設計されていることです。
CRS-Rを使用することで、国際的な基準に基づいた意識障害の重症度分類が可能になり、更に意識のカテゴリーの変化(UWSからMCSまたはEMCS、MCSからEMCSに変化)があれば、意識レベルが明確に改善したと判断できます。
一方、日本ではJCSやGCSが使用されますが、これらは国際的な意識障害の重症度分類を識別するために設計されていません。
JCSやGCSは、もともと救命救急の現場で重症患者のトリアージを目的として開発された評価であり、リハビリテーション場面のように意識障害の回復過程を評価するために使用するのは本来の用途ではないのかもしれません。
「CRS-Rは2004年に作られてから15年以上経っていて、既に世界的にも主流であるにもかかわらず、日本で全く知られていないのはおかしい。意識障害は珍しい症状ではなく、急性期病院から療養病院まで多くの患者がいて、実際にリハビリテーションの臨床で困るにもかかわらず、世界的な標準評価が無いのでは困る。CRS-Rの日本語訳は多くの人に必要とされるものだ」と思い、翻訳の方策を探り始めました。
しかし、翻訳の経験などなく、修士論文以外でまともな論文を書いた経験の無い私が、「本当に尺度翻訳ができるのか?」という不安はありました。
また、当時のメモを見直すと、色々と不安要素があったことが思い出されました。
-
そもそも、本当に日本語訳は無いのか?
-
翻訳するためには原著者の許可が必要?
-
CRS-Rの原著者は誰?
-
連絡先はどうやって調べる?
-
翻訳はどのような手順で行えば?
-
翻訳にかかる費用は?
-
英語のメールの書き方は?
思い出すと、よくこれで翻訳しようと思ったものです。
冒頭の翻訳許可の話に戻りますが、原著者のジャッチーノ教授にメールを送ったところ、15分後にはあっさり翻訳許可がもらえました。
10か国語以上に翻訳されている評価だけあって、慣れていたのでしょう。
正直拍子抜けしましたが、さっそく翻訳に取り掛かりました。
翻訳すべきガイドラインの量の多さも大変でしたが、それよりも私の身近に英語の翻訳内容の正確さを相談できる相手が限られていたことに困りました。
今でしたらChat GPTなどを駆使するのでしょうが、当時はありませんでしたので苦労しました。
重要なことですが、海外の評価尺度は著作権がありますので、翻訳する場合は必ず原著者の許可が必要となります。
最初は勝手に翻訳して使用しようと考えていたのですが、稲田先生の「尺度翻訳に関する基本指針」という記事を読んで、はじめて翻訳に原著者の許可が必要であると知りました。
早まらなくて本当に良かったと思いました。
以下に今回私が経験した翻訳の手順を記載しましたので、もし今後海外の尺度を翻訳される方がおられましたら参考になれば幸いです。
[翻訳の手順]
-
原著者から翻訳の許可を取る
-
英語版(オリジナル)を日本語に翻訳する(順翻訳)
-
順翻訳版(日本語)を、プロの翻訳家(英文校正の会社に依頼)が英語に逆翻訳する
-
逆翻訳版を原著者に送り、審査を受ける
-
審査の結果を受けて、修正指示を受ける
-
修正指示に従って修正し、原著者に再送する
-
5と6を繰り返す。
-
原著者が「修正無し」と判断し、正式な日本語版であると承認される
このような手順を経て、約1年で日本語版CRS-Rが完成しました。
しかし、本当の戦いはこれからです。
日本語版の尺度特性の検証研究と日本国内でのCRS-Rの普及を進める必要があります。
日本語版CRS-Rの信頼性と妥当性を報告した研究論文は、2024年にようやく公開されました。
一方、日本におけるCRS-Rの普及はまだ進んでいません。
CRS-Rの認知度の向上を目的としたホームページの開設(旧ホームページ)やSNS(X)での情報発信、学会発表など活動してきました。その甲斐もあってか、CRS-Rについて問い合わせをいただく機会は毎年増加しています。
最近では、埼玉県のTMGあさか医療センターの神経集中治療部の江川先生と中川先生、リハビリテーション科の吉野先生が私たちの活動に参加してくださり、今後の活動を展開する上でとても心強い存在となっています。
未だに日本でのCRS-Rの認知度は低いですが、数年後には更に目にする機会が増え、将来的にはスタンダードな評価の一つになると確信しています。そのために、我々はこれからも情報を発信していきます。
最後に、当初から私の活動を応援してくださった上司の甲山先生と新屋さん、聖隷クリストファー大学の大城昌平先生に心から感謝の意を表します。
2024年4月20日 北野貴之